影森中学校玄関前
三送会のカセット
小嶋校長と坂本教諭
若き日の小嶋校長
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昭和63年4月・・・小嶋登校長、坂本浩美教諭(音楽担当)が秩父市立影森中学校赴任。始業式で小嶋校長が抱いた最初の感想は「校歌を歌う生徒たちの声の小ささ」でした。その当時の小嶋校長の思い。「正直言って、服装面も含めて乱れていましたね。声も小さく挨拶もなかなかできない。非行がある一方、覇気のない生徒たちも多く・・・荒んでいたとも言えます。」「歌の力で、学校を立て直す、再生したい」・・・そのための第一歩として掲げたテーマ。それが「歌声の響く学校」創り。
高校生時代からさまざまな詩集を愛読していた小嶋校長は、言葉の力・歌の力があるならばそれは人の心をも変えると信じ、明るく覇気のある学校創りを目指しました。そして・・・
そのための強力な推進エンジンとして、同時赴任した坂本教諭に協力を依頼しました。
坂本(現姓・高橋)浩美教諭「プレッシャーでしたね。最初は音楽の授業中でも三階の窓から出ていこうとする生徒もいましたし、それを私が必死に止めようとしても協力してくれる生徒たちもなかなかいないというのが、厳しい現実でしたから」。
「どうすれば、子どもたちを変えることができるのか?」と坂本教諭。「そのためには私自身がハジケなければダメだと心に決め、時にはピアノの椅子の上に裸足で立って全身でハジケ、声出しをしました」。
毎月開かれる歌声集会を通じても、子どもたちは徐々に明るく変容し、やがて影森中学校は小嶋校長や坂本教諭、全教職員が理想としていた「歌声の響く学校」へとなりました。平成3年2月・・・小嶋校長や坂本教諭が影森中学校へ赴任した年に新入生として入学した生徒たちが卒業式を間近に控えた春、坂本教諭は小嶋校長にある一つのお願いをしました。
「校長先生、3年間頑張り、学校が生まれ変わる原動力になってくれた子どもたちに世界に一つしかないプレゼントをしたいのです。校長先生、歌詞を作っていただけませんか? 本格的には作曲経験のない私ですが、もしお願いできるならば作曲は私がします」。
最初は戸惑いをみせた小嶋校長でしたが、翌朝、職員室にある坂本教諭の机上に完成したばかりの「旅立ちの日に」の歌詞原稿がそっと置かれました。
小嶋校長「発想は、若山牧水の 白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」、この歌です。
坂本教諭「目にした瞬間、素晴らしい歌詞だと思いました。授業の空き時間が待ちきれない思いで音楽室に行き、ピアノに向かいました。最初に浮かんだメロディは・・・」
「勇気を翼に込めて希望の風に乗り、この広い大空に夢をたくして」でした。メロディが天から降りてきたかのようでした。
一気に完成!15分というあっという間の出来事でした。作曲が完成し、その後は時間を工夫しては全教職員による合唱練習。なにしろサプライズプレゼントのためにこっそりと合唱しなくてはならない、そこがまた大変でした。
平成3年3月14日・・・三送会会場で全教職員をバックにして体育館のステージに立った小嶋校長は、「旅立ちの日に」が作られた経緯を説明した後、まずは独唱で、続いて教職員たちがそのあとに続き、やがて歌詞がプレゼントされていた生徒たちもいつしか一緒に歌い始めました。ステージ上からふと見れば、歌いながらその目にジワジワと涙があふれてくる生徒たちの姿も・・・
この年の三送会で、卒業生たちのためにたった一度歌うだけの予定だった「旅立ちの日に」。
につづく
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ハジケた日々の坂本教諭
「旅立ちの日に」の原本
卒業式で初めて歌われた旅立ちの日に
翌年度全校生徒に配布された手書きの楽譜
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